教養があれば遊びの幅が広がるというタモリの台詞がバズを起こしているのをTLで見かけた。
元々はブラタモリでの
「教養なんてのは、あってもなくてもいい。大人のおもちゃなんだから、あれば遊びが増えるだけの話」
という発言のようだ。
教養とか知恵はリアルではあればあるほど大体のシーンにおいて良いもので、人生選択に影響を及ぼすのは勿論。世の中における様々な仕組みの相互作用に気が付いたりして「なるほど!」となるアハ体験を得る機会も多くなる。良い事尽くめだ。逆に沢山の事を識る事と頭が良くなる事のデメリットは上手く説明出来ないが、何か深遠なる哲学を得て苦しんだりする可能性があるかもしれない。例えば人間は知識を得たせいで死が怖くなったのだと思う。
無教養で頭が悪い事のメリットも言語化しづらいが存在するかもしれない(対人関係や環境が合えば「彼、アホすぎて放っておけないよ…!」と世話を焼いてくれる人を得たりするなどの利点はあるとは思う。というか多分アケゲ界隈での僕の立ち位置はそれ)。でもまあ、教養があり頭が良いというメリットには勝てないと思う。でも僕が巨漢の山賊だったら頭悪く生まれたいし、今際の際に「オデ…バカだけど…アニキの子分でヨカッタ…」って言いながら絶命したい。
前置きが長くなってしまった。
いつも通り、ゲームについての話をする。
僕は教養が深ければ深いほど、ただゲームの遊びの幅が延々と広がり続けていくようなもんでも無いと思っている。
教養を得て楽しみの幅が広がる事は概ね間違ってはいないが、教養を得たせいで楽しめなくなる事例もあるのではないか。僅かな反例を持ち出してケチを付けようとしているではない。そういうケースはそこそこ転がっているものだと思っている。
人によっては教養がマイナスに働く事は大いにある。
結論から言うと、素晴らしい作品に触れ続けた事で、平凡な凡百を楽しめなくなったり見下してしまう人というのは存在する。僕はそれを教養がマイナスに働いている、と定義している。
僕は、教養を超えた「真の教養」というものが存在すると思っている。
そしてこの真の教養は、マイナスに働かない。
例えば、だ。
オートマッピングがあり、細かな心配りが行き届いたハクスラダンジョンRPGをプレイした後に、リルガミンの町に集まりワイヤーフレームのダンジョンに挑む事を楽しめるだろうか。
どこまでも果てしなく広がる美麗な3Dグラフィックの世界を自由に探検した後に、前後スクロールしかない世界でオーバーオールのヒゲを操作してギリギリの足場をジャンプし続ける体験を面白がれるだろうか。
すべてが整えられた洗練された遊びを知ってしまった後で、不親切さすら持ち味とする原初的なゲーム体験に、再び心を躍らせることはできるのだろうか。
楽しめる。
それが教養を超越した「真の教養」だと僕が考えているものだ。
システムや音楽やシナリオといったゲームを構成するものの表面上の出来の良さを知識として身につけるだけではなく、それが生まれた背景や、それに至った要因、それらが形成された文化を学び、深遠な部分にまで思いを馳せる事で得られるものだ。
文化に対して理解を得れば、今日に至るまでに進化してきたゲーム史が残した遍くタイトルを楽しめると僕は確信している。
文化と歴史に思いを馳せる能力があれば、
拙くて不便なゲームが、姿を変えてくれる。
粗いドットのキャラが動いてただ数字が増えていくだけのゲームが、面白い。
本当の意味での教養は、ただただ知識を集積したものではなく、文化へのリスペクトから生まれる概念であるのだと、僕はそう思っている。
という話。
それじゃあ、今日はこのあたりで。