情報リテラシーは、進化のスピードに追いつけているのだろうか。
約25年前、インターネットはある種の革命だった。「検索すれば答えが出てくる」。辞書を引く必要も、人に聞く必要もない。キーボードを叩けば世界中の知識にアクセスできる。その体験は間違いなく「ヤバい」出来事だったと思う。ただ、その時点ですでに一つの問題があった。「その情報は本当に正しいのか?」という問いだ。検索時代においては、複数のサイトを比較したり、一次情報に当たったり、誰が書いているのかを確認したりといった、いわば「疑う力」が求められていた。これには時間も手間もかかる。だからこそ、それをやる人とやらない人のあいだにははっきりとした差が生まれていたし、本来であればこの「疑う力」は長い時間をかけて社会に浸透していくはずのものだった。
ところが現実はそうならなかった。検索というプロセスを飛び越えて、「AIに聞けば、それっぽい答えが一発で出てくる」時代があっという間にやってきた。しかもその答えは、文章として整っていて、いかにも論理的で、断定的で自信に満ちている。人間が「正しそうだ」と感じる条件を、ほぼすべて満たしてしまっている。ここで起きている変化はシンプルで、人は疑う前に納得してしまうようになったということだ。SNSを見れば、AIの回答をそのまま貼り付けたような投稿は珍しくないし、検証も出典もないまま、「それっぽさ」だけが広がっていく光景はいくらでも見つかる。この状況で、情報リテラシーはどうあるべきなのか。
僕が考える一つの答えは、AIを疑うだけではなく、むしろ重要なのは、「自分が納得した瞬間を疑う」ことにあるのではないかということだ。AIの問題は単純な意味で嘘をつくことではなく、もっともらしい形で検証されていない情報を提示してしまう点にある。そして人間は、文章が綺麗だと信じてしまい、理屈が通っていると安心し、自分の考えと一致すると疑わなくなる性質を持っている。つまり危険なのはAIそのものというより、それを疑わずに受け入れてしまう自分の認知の側にある。
もし検索時代があと100年続いていたなら、人類はもっと「疑う技術」を自然に身につけていたのかもしれない。しかし現実には、わずか25年ほどで次の段階に進んでしまった。その結果、検証文化が十分に育たないままツールだけが高度化し、むしろ一人ひとりに求められる判断の負荷は増えているという、少し歪な状況になっている。
そんな時代にどうするべきか。自分はその情報に対して、どういった情報を収集し、その結果どの段階でどのように納得したのか?それを考えられる力を持つこと。それこそが情報の洪水の中を泳ぎ切る能力なのだと僕は思う。
ただし、ここで一つ現実的な問題がある。毎回そんなことをやっていては、時間が足りない。すべての情報に対して一次情報を当たり、複数の視点を比較し、出典を確認する。それは理想ではあるが、日常のあらゆる場面で徹底するにはコストが高すぎる。仕事でも趣味でも、意思決定のスピードが求められる場面は多く、全部疑って検証するという姿勢だけでは立ち行かない。
おそらく必要なのは、「すべてを同じ精度で疑わない」という判断だ。言い換えれば、どこまで疑うかの線引きを自分の中に持つことである。たとえば、自分の行動や判断に大きな影響を与える情報――お金、健康、仕事、人間関係に関わるものについては、時間をかけてでも検証する。一方で、ちょっとした雑学や娯楽の話題については、ある程度ラフに受け流す。重要度に応じて「疑う強度」を変える。さらに言えば、ゼロから毎回調べるのではなく、「信頼できる情報源のストック」を持つことも有効だ。過去に何度も検証して信頼できると判断した媒体や発信者を基準点としておけば、すべてを一から疑う必要はなくなる。
つまり、情報リテラシーとは「すべてを疑い続ける体力」ではなく、限られた時間の中で、どこに疑いを割くべきかを判断する力でもある。完璧に疑うことはできない。だからこそ、自分なりの優先順位と基準を持つ。AI時代において求められているのは、疑うことそのものではなく、疑い方を設計することなのかもしれない。