最近、語彙力に関する本を何冊か読んでいて、少し気になる共通点があった。数冊に一冊は、著者たちが若者言葉に対して強い嫌悪感を示しているのだ。「エモい」「ヤバい」「エグい」といった言葉を槍玉に挙げ、「そんな曖昧な表現ばかり使っているから語彙力が育たない」と、かなり厳しい調子で批判している場面をよく見かけた。
言いたいこと自体は理解できる。たとえば、美しい夕焼けを見たときに「エモい」の一言で済ませてしまえば、その空の色や風の匂い、どこか懐かしくなる感覚といった、本来もっと細かく言語化できたものが省略されてしまう。便利な言葉に頼り切ることで、表現しようとする思考そのものが止まってしまう、という指摘には確かに一理ある。
ただ、読んでいて少し不思議だったのは、著者たちの怒り方だ。単に「より適切な表現を増やしたほうが良い」という提案ではなく、まるで若者言葉そのものが言語の劣化であるかのような勢いで語られていることが少なくなかった。そこまで敵視することなのだろうか?と感じてしまった。
そもそも、言葉というものは時代とともに変化していく。「エモい」だって、突然どこかから降ってきた異物ではなく、人々が「この感覚をうまく共有したい」と思った結果、生まれて定着した言葉のはずだろう。昔から使われている「情緒がある」や「趣深い」といった表現も、最初は誰かが新しく使い始めた言葉だったはずだ。今では洗練された日本語として扱われる表現も、誕生当初には「軽薄だ」「乱れた言葉だ」と思われていた可能性は十分にある。また、「エモい」や「ヤバい」が広く使われるのは、単に語彙力不足だからではなく、あえて曖昧さを残せる便利さがあるからでもある。「なんか好き」「うまく説明できないけど心に刺さる」という感覚は、実際かなり多い。そういう、輪郭のぼやけた感情を共有するための記号として、「エモい」は非常に優秀なのだと思う。むしろ、説明し切らないことで、受け手に感覚を委ねるタイプのコミュニケーションとも言える。
もちろん、それだけで全てを済ませるのは危うい。「ヤバい」だけで感情表現が完結してしまえば、言葉の引き出しは増えていかないだろう。しかしだからといって、新しい言葉そのものを否定し、「けしからん」と断じるのも違う気がする。語彙力とは、古い正しい言葉だけを使うことではなく、場面に応じて言葉を選び分ける感覚なのではないか。若者言葉を使う場面もあれば、もっと細やかな表現が必要な場面もある。その両方を行き来できることこそ、本当の意味での語彙力なのではないかと、僕はそんなことを思ったのであった。
今日はこのあたりで。